桂の隠れ家の庭先には、みごとな紫陽花の古株が植わっていた。
肩ほどまでの高さがあり、青々とした葉を広げている。

風が抜けて涼しいのか、近所の猫が木陰で休んでいる事がある。
出入りをする時には必ずこの紫陽花の周りをぐるりと確認してから外へ、または家に入るのが桂の習いになっていた。猫がいた時には、懐に忍ばせている煮干しをあげていた。

シトシトと雨が降る肌寒い夕刻。

こんな日には猫殿もいないだろう、と思いながらも習慣で死角になる紫陽花の裏側まで覗きこんだ。
「・・・」
桂は傘を掲げたまま固まった。

ボタボタボタ。

傘から零れた雨粒が、大きな音を立てて紫陽花の上に落ちる。
紫陽花の影に身を潜めていた者と目が合った。

雨に濡れて顔に張り付いた髪から覗く目が、驚きに見開かれる。
「よう」
「・・・高杉」
高杉は鬱陶しげに髪をかき上げた。
「・・・相変わらず鼻が利くな。良く俺が居るのがわかったな」
「貴様、こんな所で何をしている」
当然の疑問を口にする。
その問いに、高杉の口元に自嘲的な笑みが浮かんだ。
だが桂は返事を待たず、その腕を掴むとぐいと引き上げた。
「ひとまず中に入れ。そんなナリでは風邪をひくぞ」
「・・・」
慌ただしく玄関の戸を開けた。


☆☆☆


湯船に湯を張り、風呂場に押し込む。
しばらくすると桂の浴衣を着て、居間に現れた。
顔色は、風呂のおかげか随分と良くなっている。

気配もなく、まるで雨に濡れた紫陽花のようにひっそりと座りこんでいた。
いつもは百花の王、牡丹のように人を惹きつけ悠然としている男だったから、先程の様子は桂を慌てさせるには十分だった。

ほどよく冷ましたほうじ茶を机の上に置く。腰を下した高杉は、じろりと湯呑を見た。
「・・・酒じゃねぇのか」

桂は黙って、パシリっとその頭を叩いた。
「・・・痛ぇ」
水滴の滴る髪にタオルを被せると、ガシガシと拭き始める。
「文句を言うなら、ちゃんと拭いてから出てこい」
「うるせぇ」
そう言って睨み上げるが、桂は呆れた視線で逆に見下ろす。
部が悪いと踏んだのか、反らされる視線に桂は手の力を弱める。
「玉子酒なら作ってやるぞ」
「冷でいい。まだ、風邪は引いてねぇ」

まだなだけで引くのは、あのままだったら時間の問題だったろう。
「・・・熱燗で我慢しろ」
不機嫌な声で言えば、手の下で笑った気配がした。
「酒の肴になりそうな、話ならあるぜ」
桂は目を細める。
それが、高杉がここに来た理由なのだろう。

「支度をしてくる」
水を吸って重くなったタオルを、高杉の顔に投げつけて桂は台所へ向かった。




「ツイて、なかったんだろうな」
高杉は、手の中の酒を見詰めながら話し始めた。

先日、ある攘夷組織が幕府に対して大きな企てを起こすと噂が流れた。
高杉は興を引かれて足を運んだのだと言う。

だが、来てみれば計画は杜撰で、攘夷志士とは名ばかりのゴロツキばかり。
これじゃあ、企てどころかその前に潰されて終わりだろう。
早々に引き揚げようとした矢先に、真選組の一団に出くわした。

「つまらねぇ上に、身動きがとれなくてな。しばらく時間を潰したんだが」
通りから一本入った奥まった茶屋に身を潜めた。



☆☆☆

ベン・・・・

間近で聞こえた音色。
いつの間に座敷に上がったのが、一人の芸妓が三味線を爪弾いていた。
床柱を背に座る高杉から間を置き、廊下へと続く障子の前に座している。

「随分と魘されておいででした」
女は手慰みのように、弦を鳴らす。

島田に結った髪に、紫陽花の細工をした櫛と鼈甲の簪。
細工が動くたびに、チリリと鳴った。
顔を伏せ、抜いた襟元から白粉を塗った首筋が伸びていた。

その首の白さが目についた。

「俺は寝ていたのか」
高杉は辺りを見回す。

手が付けられている膳に、横に退かされている脇息。
身体には見覚えのない羽織が掛けられていた。

「ええ。先ほど横になるが気にするな、と」

ぼんやりとする頭をひとつ振ると膳の上の酒を呷った。
酒はとうにぬるくなって、酒の味などしなかったが乾いた喉は潤した。

もう一度、目の前の女を見る。
「俺が、アンタを呼んだのか」
「まぁ」
女は袖で口元を隠す。
「そんなにきこしめしている風には、見えませんでしたが。酔うておられますか」
「酔う」
高杉は独り言のように呟いた。
「怖い、夢でありんすか」
高杉の視線を受けて、女はうっすらと笑みを浮かべる。
「魘されておいででした。怖い声を出して。悪夢でありんすか」
「そんなんじゃねぇさ」
「でも、青いお顔」
「夢よりも現の世の方が、悪夢みたいなもんだろ」
吐き捨てるように言えば、クスクスと笑う気配がする。
「苦界に生きる、わっちらのような事を言いなさる」

ジジッと行燈の炎が揺れる。

「てめぇ」
高杉は違和感に気が付いた。
部屋に通された時に聞こえていた、宴の音が一切しない。
第一、高杉が初めてあった相手の前で眠るなどありえなかった。

女の奏でる三味線の音だけが響く。

「ならば、その夢をくださいまし」
白い細い指が、高杉の髪を梳く。
そのまま頬を撫でると、唇にとまり指を添える。

「わっちが喰ってあげましょう」
いつの間に距離を詰めたのか。

衣擦れの音もなく、目の前に女がいた。

息がかかる程の距離に顔を寄せられている。
それなのに紅を塗った口元だけが目に付き、そこから上は霞がかかったように見ることができない。

(コイツは)

術を使う天人か、それとも妖の類か。
高杉は静かに息を吐くと、腹の底の丹田に力を入れる。

「悪夢だろうと、俺の夢。やれねぇな」

気を込めて、鋭く言い放つ。
「・・・頑固だね、変わらずに」
耳に届いたのは、低い男の声だった。
女の手が離れ、ぐらりとその身体が揺らぐ。

「!」

倒れそうになる身体を掴むと、鼻を掠めたのは遊郭では香るはずもない香の匂い。
「おい」
畳に倒れ込んだその顔を覗き込めば、女は鼾をかいて眠っていた。



☆☆☆


「そんな事があった」
「そうか。で、その声は先生の声に似ていたのか」
高杉は顔を上げる。
桂の顔には、なんの表情も浮かんでいない。
高杉の語った内容に驚くでもなく疑うでもなく、いつも通りに杯を口に運んでいる。

「ああ、似ていた」
頷いて高杉も酒を注いだ。

「狸に化かされたのかもしれねぇが」
「高杉の不甲斐なさを、叱りに来たのに決まっているだろう」
腕を組んで頷くさまに、高杉は口の端を吊り上げる。
「・・・テメーは、」
高杉は言葉を切り、桂を見遣る。
「こんな戯言を口にする俺の正気を疑わねぇのか」
「ほぉ、貴様に正気など残っていたのか?」
ゆっくりと桂は微笑を浮かべ、視線を返した。

高杉は桂の腕を掴むと、自分の方へ引き寄せた。
弾みで酒を載せた膳が傾ぎ、徳利が大きな音を立てる。

「酒が」
「・・・今度、持ってきてやるよ」

桂を腕の中に閉じ込め、その肩口に顔を埋める。
大きな溜息が聞こえた後に、背に手が回されポンポンと叩かれた。

―――とうの昔に壊れた心が起こした、幻聴かもしれない。

それでも高杉がそうだと言えば、是と桂は認めてくれる。
他の誰に告げる事が出来なくても、桂だけには告げる事が出来た。

「とうに狂気のうちか。それにテメーは付き合うのか」
「違うだろう。高杉がつまらなくて芸妓が寝てしまった、と言う話だろうが」
「ヅラ」
低く高杉が唸ると愉快そうな笑い声が聞こえる。
「冗談だ」
ぎゅっと、背に回された手に力が籠められる。

「俺も、先生に逢いたいな」
小さく呟かれた言葉が、チクリと高杉の胸を刺す。
「・・・出来の良い神童の所には、間違っても来ねぇだろうよ」
素っ気なく言い返す。
「確かに『出来の悪い子ほど、可愛い』と言うからな」
その憎まれ口に、高杉は笑う。

桂が高杉の瞳を覗きこむ。
「俺が欲しいと言ったらどうする?」
息がかかるほどに顔を寄せて囁いた。
「貴様の、その悪夢を俺が食ってやろうか」

共に悪夢に身を落とそうか―――

「やってもいいが」
そのまま畳に押し倒し、顎を取る。

「テメーが俺の悪夢を食う前に、俺がお前を食っちまっていると思うが」
「・・・それは、困る。ちょっと待てないか」
「待てねぇ」
畳に押し倒された状態で見つめ合う。

「さっきまで、紫陽花のような青い顔をしておったのに」
目を細め、高杉の頬を撫でる。
「そうかよ」
「…今は、桃の花のようだ」
「誰のせいだ」
それに、と続ける。
「色を変えるのが、紫陽花だ。誘ったのはそっちだろう?」
「やはり、そういう風に解釈されるのか」
その言葉に高杉の眉間に皺が寄る。
桂の瞳の奥に宿った色を、許されたと思ったのは間違いだったのか。

「なんだ、違かったのか?」
不機嫌そうに高杉が問えば考え込むような、戸惑う顔をする。

「違う、と言うか、違わない、と言うか。…ただ、どんな味かと思ったのだ。お前の夢は」
問う瞳はまるで子供のように澄んだ色をしている。

「きっと死ぬほど苦くて、酸のように喉が焼けちまう代物だろうよ」
自嘲的な言葉が出る。
「美味な毒もあると言うじゃないか。フグの肝のように」
「俺は珍味か」
脱力し、桂の肩に頭を乗せる高杉の頭を撫でる。
身体を起こした桂はその唇にキスを落とし、チラリと舐める。
次に深く唇を合わせると、食むように舌を絡めた。
「・・・確かに、少し痺れたかもな」
目元を赤く染め耳元で囁く。
「高杉が先に食う、とか言うからだ。だから俺が先に食った」
だから、と続ける。
「悪夢はもう俺のものだ」
顎を取り自分の方に向かせれば、桂の瞳に己の姿が映りこむ。
「随分と煽ってくれるじゃねぇか。覚悟はいいか」
乱暴に桂の帯を解き始める高杉の頬に手を添えて、桂は嫣然と答える。

「毒を食らわば皿まで、だ」



☆☆☆


翌朝、雨は上がっていた。
庭の紫陽花は、朱を飲んだように青から紫に色を変えていた。

「見事に色が変わったな」
気だるげな様子で見送りに付いて来た、桂が告げる。
肩を竦めると、襟元が緩み首筋に高杉が付けた痕が見えた。

「ヅラも、紫陽花みたいだぜ。ここに花が咲いてらぁ」
トンと指さすと、桂は肩口を手で押さえて恨みがましく高杉を睨む。
「こんな所にまで付けおって。迂闊に人前で着物が脱げぬではないか」
「それが目的だからな」
高杉の言葉に桂は目を丸くする。
「意外に情が怖い男だな」
「紫陽花を見たら、俺を思いだぜ」
「…今の季節、何処にでも咲いているぞ」
だからだ、と笑う。
「なら、雨が降ったら訪ねて来い」
桂の言葉に、高杉はひとつ頷くと踵を返して通りへと歩いて行った。




後日、攘夷志士達の会合で紫陽花が話題に上がった。
名所や紫陽花の花を模した和菓子についてなど、他愛もないものばかりだったがその中の一人がこう言った。
「紫陽花の葉にも、毒があるんですよ」
「ああ、それは知っているぞ」
それまで皆の会話に参加せず静かに聞き役に徹していた桂の発言に、皆の視線が集まる。
「さすが桂さん、良くご存知ですね」
「どこで知ったんですか?」
「どこだと?」
仲間の質問に何故か顔を赤くし慌て始めた党首に、志士達は首を傾げた。


<終>






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