しとしとと音がする。どうやら雨が降り出していたようで、桂は億劫ながらも寝転んだ姿勢のまま、ゆるりとすぐそこの障子窓へと首を巡らせる。然程強くはないようだが、一体いつから降っていたのだろう。先程まで外の物音に意識を向けていられる状態ではなかったから、全く気付かなかった。
「雨の日は古傷が痛んでいけねェ」
 そんな声が聞こえてきたのは背後からである。雨のせいか湿気を含んだ室内の空気に混じるのは、微かな煙の香りと石鹸の匂い。襖を閉める音と共に寝間に戻ってきた高杉は、未だ蒲団から起き上がらない桂に一瞥もくれることなく、障子窓へと近寄っていく。開け放たれた窓の向こうに広がるのは予想に違わぬ曇天と、雫を受け濡れそぼる紫陽花の花だ。窓枠から少し手を伸ばせばいとも容易く届くだろう位置にあるその紫陽花たちは、水を得た魚のように生き生きとしているように桂には見えた。
「……風呂」
「あ?」
「お前、風呂に入ったのか」
「悪いかよ」
「俺も入りたかった」
 少しだけむすっとした声を出すと、高杉はにんまりと口元を緩めて見せる。「そいつは悪かったな、今ならまだ湯は温かいだろうよ」と全然悪びれていない声で寄越された返事は、ひどく喜色に満ちていた。
「動けないの、分かって言ってるだろう」
「そいつは知らなかった。随分軟弱になったもんだ」
「……性悪め」
 ますますむすくれたように唇を尖らせるも、高杉は桂のそんな顔と反応を見てはやはり笑うだけで、桂はもういいとばかりに溜め息を吐いた。呆れた溜め息は相手ではなく自分に向けたもの。珍しくも高杉が浮かべている、まるで彼の無垢な心をそのまま投影したかのような穏やかな笑みは、正直嫌いじゃない。だからといってなんでもかんでもこちらが折れてしまうのもどうなのだろうと桂は思ったりもするのだが、久々に見た昔馴染みのそんな顔を前に水を差すのも憚られて、結局今回もだんまのを決め込んだ。決め込んだ代わりに、自分への呆れた溜め息というわけである。
 高杉はそんな桂を甘いとよく称するけれど、そういう高杉本人はそんな桂の甘さを気に入っている節もあるから、きっとどっちもどっちだろう。互いが互いに対してどこか甘さを捨てきれずにいる。それを知りながらも、そしてその甘さがいつか取り返しのつかない事態を招くだろうことも、互いになんとなく気付いている。気付いていて知らないふりを続ける日々は、いつしか常習化してしまった。その結果が、この不毛な逢瀬だった。不毛とわかりつつ、やっぱり手放せない。それが自分達の甘さで、弱さだ。
「……今何時だ」
「さてね。まだ夜明け前だとは思うが」
「そうか……昼前にはここを出る」
「相変わらず、忙しい野郎だ」
「お前が言うな」
 しとしとと外から聞こえる雨音と、高杉の穏やかな声、それに自分のいくらか掠れた声。静寂に染み入るたったそれだけの音がいやに心地よくて、不毛な考え事に嫌気が差していた桂の口からはくあ、と意図せず欠伸が漏れた。先程まで運動紛いのことをしていたものだから、きっと疲れもたまっているのだろう。けれど掛布を被っただけの一糸纏わぬ体は汗に濡れて不快で、やはり湯を浴びたいとも思う。ああでも、足と腰が鈍く痛んで立ち上がることもままならないこの体では、一人で風呂場にさえ立てないだろう。
 うつらうつら、半分ほど眠気に沈んだ思考の中、桂の諸々の思いなど知りもしないだろう高杉は、開け放った障子窓の傍、桂の寝転がる蒲団のすぐ近くに腰を据えた。携えていた瓶の中身を杯に注ぐと、そのまま外を眺めながら中身を傾け始める。桂の鼻腔にツンとした仄かな香りが届いて、その液体の正体を教えてくれた。
「……酒か」
「飲むか?」
「水がいい」
「贅沢言うな」
 ぐい、と瓶から直に酒を含んだ唇が、有無を言わさず桂の唇に落とされる。顎を掴まれ、けれど決して強くはない、むしろ優しすぎる加減で口を開けるように促されて、桂はなんとなく笑いたくなってしまった。変なところで、この男はいつだってこんな風に繊細だ。桂を壊れ物かなにかとでも思っているのか、言葉ではいつだって散々な物言いをするくせに、時折こうして優しいばかりの手つきで触れてくる。それは先程、この蒲団の上で熱を分け合っていたときもそうだった。
 一体高杉は何を思ってこんな風に桂に触れるのだろう。長い付き合いだ、その理由がなんとなくわかる気もするし、わからない気もする。わからないままでいたい気も、する。これも不毛な考え事の一つ。
 素直に唇を開けば、少しずつ酒が注がれる。然程きつい酒ではなく、比較的喉越しの良い酒だったのが幸いだった。こんなからからに渇いた喉を酒に焼かれでもしてはたまったものではない。
 飲み易いようにと少しずつ注がれる酒を、こくりこくりと飲み干していく。全て注ぎ終わった後、高杉は一度だけ桂の唇を舐めてから顔を離した。
 その刹那、視界の端に入り込んできた淡い紫に、桂の記憶が回帰する。
「……あじさい」
「あぁ?」
「お前、紫陽花好きなのか」
 高杉の肩越しに見える紫は、窓のすぐそこで咲く紫陽花の色だった。曇天の下、紫や青といった色彩は寒色ながらも季節柄、酷く映えて見える。
 体を起こした高杉は何を一体、という胡乱な眼差しを向けていたが、桂はしかと覚えていた。先月だったか、高杉がこことは違う借家を塒にしていたときも、その庭先には紫陽花が咲いていた。その前に腰を据えていた旅籠には裏庭に藤の茂る垣根が植わっていたし、いつだったかの屋敷は庭いっぱいに椿が咲いていた覚えがある。
「紫陽花、というよりも、花が好きなのか」
 身を落ち着けて置ける場所などどこでもいい、頓着しない。そんな体でいるくせに、思い起こせば桂が高杉を訪ねるときはいつだって近くに色とりどりの花が溢れていたように思う。意図してそういう場所を選びでもしなければ、そんな偶然も中々ないだろう。現に桂は身を置く場所に拘ってはいない。庭も無いようなあばら屋や、雑居とした長屋で過ごしていたこともあるくらいだ。
「まァ、嫌いではねェな」
 外の紫陽花を眺めながらそう答えた高杉に、自然と桂の口元も弧を描く。それは今更知った昔馴染みの意外な一面を垣間見れた楽しさでもあったし、まだ彼の胸にも草花を愛でるだけの心があったのだと知れた喜びでもあった。
 師を失って以来、彼の瞳に宿るのはもっぱら暗い復讐心と、破壊の欲望だけである。叶うならば彼にはそんな目をして欲しくないと、未だ悪足掻きのように考えてしまう己はやっぱり彼が言うように「甘い」のだろう。そのくせ、己が身の内にも破壊と復讐の野心を飼わせているのだから、実に身勝手である。きっと高杉が知れば、そんな桂を嘲笑うに違いない。
 ふいに、高杉の手が窓の外へと伸ばされる。伸びた指先は紫陽花に触れ、その花を一房、ぱきりと手折った。隻眼が、ゆるりとこちらに向けられる。
「花は、お前に似合うからな」
 緩慢な動作でこちらに下ろされた高杉の手。するりと桂の頬にかかる黒髪を梳いたかと思ったら、耳の上に手折った紫陽花が差し込まれた。
「……ああ、やっぱりこの色が一番映えるな。悪くねェ」
 復讐心でも破壊の欲望でもない、まるで花を愛でるみたいな、そんな慈愛の眼差し。するりと撫でられた桂の白い頬に、一瞬にして熱が集った。反射のように起き上がってしまってから、下半身を襲った痛みにまた蒲団の上へと崩れ落ちる。
「何してんだお前」
 くつくつと笑う声は穏やかだ。その声にも、今は体がの熱が煽られるだけだった。
「……高杉、お前、なんか色々、クサイぞ」
「そんなクサイ野郎に赤面してる奴に言われたかねェよ」
 ああ駄目だ、今はなにを言っても墓穴を掘ることにしかなりそうにない。
 けれどこんなの、不意打ちも良いところである。それもそうだろう。だって、今まで花のある場所を意図して棲家に選んでいたのは、つまり――
「……っ!」
 それ以上の思考を拒否して、桂はばふりと掛布を頭から被った。落ちてしまった紫陽花の花を手に取った高杉は、そんな桂をいやに甘ったるい目で眺めてはまたくつくつと笑っている。

 静かな雨音と、高杉の穏やかな笑い声。
 時勢も立場も何もかもを忘れさせてくれる、ただ二人が二人だけであった頃に立ち戻ったかのような、そんなぬるま湯みたいな梅雨の一時であった。
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